昭和四十三年二月二十七日 朝の御理解
御神訓
X 一、物事に時節をまたず苦をする事
X 一、壮健な時、家業を疎かにし物事に驕る事
X 一、信心する人、真の信心無きこと
真の道の心得の中に、一つ「物事に時節を待ず苦をする事」一つ「壮健な時、家業を疎かにし、物事に驕る事」「信心する人の真の信心なき事」とございます。「物事に時節をまたず苦をする事」「壮健な時、家業を疎かにし物事に驕る事」「信心する人、真の信心無きこと」
昨夜、よぎなく、十二時過ぎ迄、御結界奉仕をしとかなきゃあならない様な事情がございました。その間、電気も消してしまい、共励会でございましたので、共励会が済んで帰ってまいりましたのが、十二時過ぎでございました。
私は、御結界に奉仕しておりました。その間真っ暗いお広前のなかで、一日の事を、思わして頂いたんですけれども、世の中の様々な、難儀な姿というか、お取り次ぎを願われる一人一人の内容というか、その事を一つ一つ思わして頂くのですけれども、容易ならないもう本当に、もう命にかかわるような、死ぬるか、生きるかというような問題から、又は、それこそ、十代の方ですけれども、「僕は、○○さんが好きになったんです。どうぞおかげを、頂かせてください。」と、いったような、可愛らしい願いから、もう様々なんですよ。
そういう、様々な願い、又は、お取り次ぎを願われたそういう事柄を、思わして頂いておりましたら、御心眼に『赤いポスト』を頂きます。皆さんの様々な願いとか、思いとか、それを通信に寄せて、先方に届けてほしいという思いを、赤いポストの中に皆な入れてゆかれますように、お取次さして頂くという事は、もう様々な事をここへほうりこんでいかれるわけです。
それは本当に取次がして頂く者も責任を感じるですけれども、やはり良い返事を受けたいと思うのは、お取次を願う者の方も、お取り次ぎを、願うそれの事に対しての、信心がなされなければならないという事です。その内容がです。どういう様な事が様々な難儀の元になっておるかというと、「物事に時節を待たず苦をする事」これが多いですねえ。もう、本当に、そんなに憔悴しなくても。心配しなくてもよい事をです、本当に取越し苦労、取越し苦労の、願いがきわめて多いんです。「心配いりませんよ。神様一心におすがりしときなさい。」と言うて、信心の方向だけは、示してさしあげる。
そして、「成り行きに任せなさい。時節を待ちなさい。心配する事でないですよ。そういう心配する事ではないですよと。」いう事をです、皆がもう真剣に心配しておる。
そして、自分では命にかかわる事のような、大変な難儀にしてしまっている。信心が分からないと、いう事になってくるのだ。それから次に、「壮健な時、家業を疎かにし、物事に驕る事」これが原因で、困っておるというのが、又、多いですねえ。自分が、そういう難儀の元をちゃんと作っておる。なんでもない時には、もう、それこそ我儘、おうちゃくな事ばかりを、言うたり、したり。次、この白い雪が、この前、大雪がふりました。あの時の様に、もう本当に『ちょうど舞う様に雪が降ってる訳なんです。そういう情景を頂くんです、ね。なんでもない白い雪が降り積っている様に有りすけれども、あのひとひら、ひとひらの、雪の姿というものは、それこそ、レ-ス編みか何かでも、正確に編んだ様に、あの雪のひとひら、ひらに、ひとつの姿、形というのが有るのです。それが積もり積もって、真っ白い雪になっておるんです。
ようにですね、様々な難儀を感じておる元が、もう、それこそ、厳密に顕微鏡で見たら、そうゆう様な事が、こういう事になっておる。原因なしに結果は生まれない。そういう種をまいておるから、こういう花が咲いたり、いやな実が稔ったりしておる。
そこで、「信心する人の真の信心なき事」信心さして頂くならです、真の信心をさして頂いてです、おかげ頂いていかにゃあならん。ところが、お道、の信心の有難いという事ですねえ、お取次頂いて、ひとつ、ひとつおがげになってゆく、それを、 又、ひとつひっくり返しますとです、それと同じくらいに、先日お願いしておりましたのが、こういう風におかげになってまいりました。おかげで、死なんで済みますた。という様にです、本当にある場合には、大変な神様の演出の元に、又、いと簡単に問題が解決していったり、おかげなって、それが、次の日の又、おかげになってくる。そういう繰り返しですねえ。なる程、ここは、赤いポストのようなもの、皆の思いのたけを、お取次に持ってくる、それを、神様にお取次をする。
そして、その神様にお取次をさして頂いて、神様の、そのおかげをです、頂かれる為に、あなた方の、信心の方向を、示してあげる。そこにおかげが有る。
昨日、ちょっと、事務所へ下らして頂いてから、なに気なしに見せて頂いた本が、安武松太郎先生、甘木の初代の安武松太郎教語録というのでした。開かせて頂いた所に、信心という原因が、おかげという結果になると書いてございました。信心という元ですね。信心と言う原因が、おかげという結果になる。こんところを私が思う時にです、お道の信心の有難さを感じるのです。様々な、難儀が蓄積される。様々な、お粗末、御無礼が、それこそ、厳密に言うと、雪のひとひら、ひとひら、の様に、もう、訳のない無茶な事は、ひとつもない。神様の厳密な、お働きの中に、そういう問題が、起きてきておる。又は、そういう難儀が、生じてきておる。そういう様々ないわば、お粗末、御無礼の元、ひとつの原因をなして、難儀のもとを作って、難儀いう事に、なっておるんですけれども、難儀というのがですねえ、いと簡単に信心という事によってです、おかげということによって、おがげという結果が、もう、簡単生まれてきておる。生まれてくるのが信心だ。お道の信心は、それなのだ。
そこで、これは、一番最後の、三ヵ条を頂いてから、最後の三ヵ条を読ませていただいたんですけれども、「物事、時節を待たず苦をする事」 大変な難儀のように思われておるけれども、時節を待っておれば、ちゃんと、おかげになる事を、大変な事になる様な取り越し苦労をしておるような事、これは、もう本当に取り越し苦労である。それが、信心がないと分からない。 「壮健な時、家業を疎かにし、物事に驕る事」 これは、原因を作っておる、難儀な原因を、作っておる。それが、ひとつのめぐりになっておる。ひとつ、ひとつの原因というものは、ちょうど、ひとひら、ひとおひらの雪の様に、厳密なもなであって、いわゆる、天網恢々、疎にして漏らさず、という様な、言わば、厳粛なものであるという事。けども、そういう例えば、間違いのない、おそまつ、御無礼が、この様な、結果を生んでいる。けれども、お取次を頂いて、お互いが、信心をさせして貰うと言う事、真の信心になっていくという方向が、向けられるところから、もうすでに、おかげという結果が、生まれてきておる。
先日から頂きました御理解の中にも心は信心の規定じゃによって、というから、おかげも又、信心の規定だという、御理解を頂きました。甘木の先生は、そこのところを、おっしゃって、おられるように思う。おかげは、信心の規定なのですから、おかげは、その結果なのですから、信心という結果なのですから、信心という原因、信心と言う原因、そこで信心とは、信心とは、と言うことを、本気で私共が求める、信心とは、信心とはという追求を、しなければならないという事が解ります。
そこで信心とは、参る事だけじゃあない。拝む事だけじゃあない。どうでも、信心とは、やはり私共が、いわゆる神心、私は、いつも、信心、真心、神心と言う。本気で真心の人にならせて頂こう。真心で実意了寧で事に処してゆこう。信心とは、いよいよ、神様を信ずる力、信ずる心を頂いていこう。信心とは、いよいよ神心に向って進んでいくこと。最近、お書物を見せて頂いとりましたら、教祖様は、そこんところを、神人とうけとられる。神と人と書いておられる。ここは、もう最高の信心、所謂、お道の信心の独断場、神と人とがですねえ。いわゆる、神様が喜んで頂くような、信心という事なのですから、そこに氏子が、喜ばせなければおかんという、働き、いわゆる、あいよ、かけよのこれを神人と、簡単な神と人と書いて、表現しておられます。これが、お道の信心の独壇場でもあるし、同時に、ここをめざさなければならんのです。
様々な願い事、それが成就致しますように、といったような事からです、そのためには、やはり私共がしんじん本当に私共が、どれだけ、真心の人にならせて頂いたか、又、真心で事に当たり、接しておるか、一生懸命参りもする、拝みもおるけれども、はたしてどれだけ、神様を信じる力が生まれたか、自分の信心の方向というものが、「我心が、神に向かっていくのが、信心というのじゃ」 と、おっしゃるが、神心をめざして、方向がかえられておるかどうか、そして私共の願いとするところがです。神様が、喜んで頂く様なおかげを願い、神様に喜んで頂くような、信心をさせて下さいというような願い祈りいうものの、修行がなされているかどうか、という事を検討してみなければならない。夕べも、皆さんに話したんですけれども、私共の心の中に、本当に信心しておって、似ても、似つかない様な心というのが、心の中にある事に気が付いた。
先日、ある教会の御お大祭に麻生さんが、若先生のお供をして行かれた。で帰ってから、「今日の御大祭はどうでしたか。」と尋ねたら、「はい、あのう、ぱら-っと、いっぱいでごさいました。」(笑) 今日は、お参りが少なかったと、例えば言われて、おったらどうかしらんけれども、「ぱら-っと、いっぱいでございました。」 というのが、私の心の中に、それこそ、快く入ってくるんです、ね。もう、さすがに、私も、げっそりする、自分ながら、するんですよ。よその教会の御大祭に、お参りが少なかったと聞いたら、気持ちの良かようなものがある。なんと、あさましい、きたない心だろうかと思う。その瞬間、私の心の中には、もう方向が、神心に向かっていなかったんです。心が神心に向かっておる時ならです、ね。多かったと言やあ、お礼を申し上げ、少なかったと言やあ、願わして頂くと言うような、心がなかららねばうそ。
そういう時も有るかと思うと、そういう様な、人の難儀を聞いて、快くそれらが入ってゆく、これでは、やはり神心じゃあない事を感じます。ところが、お互いの心の中に、厳密に、ひとひら、ひとひらのその雪の姿、形が、それこそ、レ-ス編みのように素晴らしい、神様の御手にかかったものが、積もり積もって、白いあの銀世界と言うか、雪が積もっておる景色になって、おる事でございますけれども、ひとつの事柄でも、そういう厳密な、私はお粗末、御無礼がです、積もり積もって、難儀をかんじる。それを、実は難儀でもないものを、難儀と感じたり、いはゆる、時節を待てば、おかげを頂けるものを、只、あくせくとして、難儀を感じて、夜も眠れない様にある。かと言うと、壮健な時、自分の家業を、自分の仕事を疎かにして、物事に驕るような、これは、物事に驕るとか、いうだけの事じゃあ有りますまい。そういう平常の時にです、すういう原因を作っておって、はっきり、難儀という形に顕れておるのもある。
それでも、お取次を頂いてお願いをさして頂く所に、信心という、いわゆる、元を作ってさえいれば、おかげという結果が、いと簡単に、金光大神のお取り次ぎによって、頂けていくというところに、お道の信心の有難さが、あるんだけれども、その神心が本当に向きをかえておかなければ、いと簡単なおかげになってこない。おかげが受けられんというのは、あんたの信心の規定なのだから、と言われて、又、自分もそう思って、信心、真心、神心、又、教祖がおっしゃる所の神人、神人そういうことへです、私共の信心が、方向づけられておるかどうか、只、参っておるだけ、拝んでおるだけ、只、御教を頂いておるだけ、これでは、お道の信心は、信心にならない。信心という原因に、おかげという結果は、絶対のものとして、安武先生は、説いておられます。その絶対のものが、顕れてないと、するならばです。今、私が申しますような信心がです、どこにか、間違た方向に、なっておるという事をです、悟らして頂いて、おかげを、蒙っていかねばならんと、思うですねえ。どうぞ。